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縄文時代 フリー画像(adobe stock)

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縄文人の暮らしと文化

縄文時代の人々が決して原始的な暮らしをしていたわけではありませんでした。
暮らしと食生活について、時代別にみていきます。

縄文時代草創期の暮らしと食べ物

旧石器時代人が主に移動生活だったのに対し、縄文時代草創期には一時的に特定の場所で生活する半定住生活を送るようになっていた。

フラスコ状の貯蔵穴が掘られ、湧水地にアク抜き施設を兼ねた貯蔵穴が設けられた例も見られます。
魚類や貝類についてもなんらかの保存技術が用いられていたことが想定されています。

落とし穴は旧石器時代から用いられており、縄文時代になって盛んに用いられるようになりました。

縄文時代早期の暮らしと食べ物

早期までは洞窟に居住しており、台地上に竪穴住居が造られるようになったのは前期からです。

ドングリやクルミなどの木の実を植林栽培する手法が確立し、食糧資源となっていました。
アサは、草創期から出土例が見られ、エゴマについては、早期から栽培されていたとみられます。
クリが食べられていたこともわかりました。
貯蔵穴が発見されており植物採集も行っていたと見られます。

この時代の遺跡からは石鏃が出土し、弓矢猟を行っていたことがわかります。
この他、獣を捕獲するための道具として石槍・尖頭器が見つかっています。

装飾品として玦状耳飾りが見つかっています。

縄文時代前期の暮らしと食べ物

最も典型的な縄文文化が栄えた時期で、定住集落が増え、本格的な漁業が開始されています。

縄文海進によって沿岸部には好漁場が増え、海産物の入手も容易になったとみられます。
クリ林が人為的に形成され、計画的に栽培、管理され始めました。
ダイズやアズキのようなマメ類も栽培されていたとみられています。

イヌの出土が縄文時代の前期から晩期にかけて増加していきます。

岡山県の朝寝鼻貝塚や彦崎貝塚では縄文時代の前期の地層から「プラントオパール」というイネ科独特の細胞が見つかっています。

縄文時代中期の暮らしと食べ物

寒冷化が始まり、集落の規模が大きくなります。
平地にも建物がみられるようになり、掘立柱建物も造られるようになります。

この時期の土器に特徴的なのは、押型文と呼ばれる文様です。
植林農法の種類もドングリより食べやすいクリに変わり大規模化していきます。
アク抜きを必要とするコナラやトチノキの種や実も利用されるようになります。

集落が大型化し、人間の上下関係が形成されるようになりました。
長老的人物が集落を仕切ったり、呪術を使うなど、首長制社会の原型が生まれました。

縄文時代後期の暮らしと食べ物

寒冷化で海面が低下し、人口が減少傾向にあり、集落の規模がより大きくなります。

土器の縄文は細かいものとなり、丁寧な施文がなされたものが多くなります。
土器の形状も用途に合わせた種類がみられ、磨きをかけて光沢をつけられたものもありました。
北海道や北東北では、ストーンサークルともよばれる環状列石が作られました。
共同墓地や、祭礼の儀式を行う場所として使われていたとみられます。

縄文時代晩期の暮らしと食べ物

気温が2度前後低下し、海面も低下していきます。

縄文時代晩期に稲作が行なわれていたことが分かってきました。
菜畑遺跡(佐賀県唐津市)、津島江道遺跡(岡山県)のもの水田遺構としては最古とされます。
さらに、板付遺跡(福岡県福岡市)で縄文晩期末の土層から大区画の水田跡と木製農具や石包丁などが出土しています。
これにより、最古の農耕社会といえる弥生文化(早期)が始まりました。

縄文史観の変化

第二次世界大戦後、植え付けられていた敗戦史観が塗り替えられようとしています。
それも、科学的手法によって解明が進んだことによって、戦後史観が塗り替えられようとしています。

これは、DNAゲノムによる解析が貢献しています。

伊川津貝塚遺跡出土の縄文人骨(IK002)の全ゲノム配列を解析し、アフリカ大陸からヒマラヤ山脈以南を通り、ユーラシア大陸東端に到達した最も古い系統の1つであることを明らかにした。
本州縄文人(IK002)の全ゲノム・ドラフト配列の詳細な解析から東ユーラシア全体の人類史の新たなモデルを示した。
縄文人ゲノムは、東ユーラシアにおける現生人類集団の拡散及び遺伝的多様性を理解するのに不可欠であり、高精度縄文人ゲノム解読を進め、日本列島人ゲノムの総合的理解に貢献する。

縄文人ゲノム解析から見えてきた東ユーラシアの人類史

伊川津貝塚(いかわづかいづか)
愛知県田原市伊川津町にある縄文後・晩期を代表する大規模な貝塚遺跡。
叉状研歯を伴う抜歯風習の痕跡が見られる人骨が見つかっていることで有名。

次に、現代の日本列島人3集団と縄文人との関係を見たところ、アイヌ、琉球、本土日本人の順に縄文人の遺伝要素が強いことがわかった。二重構造説で指摘されていたことを、縄文人の核ゲノムを用いて直接的に証明した初めての成果である。

縄文人の核ゲノムから歴史を読み解く 神澤秀明

神澤秀明博士は、これまでの研究では、縄文人は形態的に東南アジア人に近いが、DNA分析では北東アジア人に近いという結果が出ることもあった。
しかし、核ゲノムの解析から、縄文人はこれまでに考えられいたよりも古い時期に孤立した独自の集団である可能性が出てきた、と言います。

日本人の起源

「パレオゲノミクス」とは、小竹貝塚の縄文人骨のような古人骨から遺伝情報を抽出し、比較解析する研究です。パレオゲノミクス解析によって、実証的に人骨の血縁関係、更に日本人のルーツについても評価することができます。 主成分分析の結果、縄文人、弥生人、古墳時代人、現代人に分布の差が現れました。縄文人は明らかに他の大陸の人々とは違う傾向にあることが読み取れ、弥生、古墳と時代がくだるにつれ大陸の人に遺伝的に近くなることがわかります。

従来、日本人のルーツは、縄文人に渡来人が混血し弥生人となり、現代人に至るという二重構造だと考えられてきました。しかし、今回の研究では、縄文人に、弥生時代の第1波(北東アジア祖先)と古墳時代の第2波(東アジア祖先)が混血し、現代人が成立したということがわかりました。これが今回、共同研究チームが提唱した日本人の三重構造モデルです。

縄文人のゲノム解析

小竹貝塚のゲノム解析から、現代日本人(本州)の縄文人・弥生人の割合は、約15~30%とみなしています。

三貫地貝塚出土の縄文人のゲノム解析では、約14%~20%と推定しています。

小竹貝塚は、富山県のほぼ中央に位置する呉羽丘陵と、その北に広がる射水平野との接点に位置し墓域・住居域・生産加工域などをもつ通年定住型の集落であることが分かりました。

要は、大量の渡来人が日本列島にやって来たのですが、約2000年かけて徐々にやってきたということが判明したのです。
もちろん、DNAゲノムだけから判断するのではなく、気候風土や考古学の観点から判断することも重要でしょう。

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